脇役とメガネ

東京で溺れています

障害者に向き合うことから逃げた僕

僕の兄は自閉症です。


彼は世間一般に言う障害者だ。


誰かの力を借りないと生きていけない存在だ。


僕が彼を「ふつう」ではないと認識したのは4歳のとき。

4歳の幼稚園児が遊ぶ乗り用玩具を小学生の兄がそれで遊んでいたこと。


母に言っても何も言わずそのまま遊ばせているだけだった。


僕はそれを見て多分絶望したんだと思う。



ふつうの兄じゃないんだと...。



小学生になると、同じ小学校に通うようになる。

通っていた学校が支援級のある学校だったため、兄と同じような障害の人もいた。
ただ、彼らは落ち着きがなかったり、騒いだり、動いたり、不可解な行動をする。
だから目立つ。悪目立ちをする。


同級生にいじめられることはなかったが、全然知らない上級生下級生からいじめられることはよくあった。
暴力は振るわれるし、階段から突き落とされるし、持ち物も壊される取られるしと散々だった。
でも先生や親にそれをいうこともなく、ただ「へへへ」と苦笑いして状況を受け流していた。
兄が迷惑かけてる分、自分は誰も見ていないところで泣くしかなかったから。


僕が小さいころ嫌だったことは家族でお出かけをすることだった。
やはり兄は目立つ。
食事をしに行ってもうるさいし暴れるから周りから冷ややかな目で見られる。


僕はそれのせいもあって一時期まで外食のときだけごはんがのどを通らなかった。
それは気心知れた友達であっても。


その当時の僕は支援級の先生も親も兄には甘いとずっと思っていた。
やりたいほしいと言えばすぐ従う。

兄のほしいものはドンドン増えていく。

僕は服もおもちゃも全部お下がりだ。しかもいらないもの。

親が気を使って買うおもちゃも僕にとっては欲しくないものばかり。いらなかった。




兄があれだけふつうでもないし、わがままだから自分はそういうことをしてはいけないと思っていた。





一応、僕にも思春期はあったので中学生になると兄とは全くしゃべらなくなる。
それまではふつうに遊んだりもしていたけど。



むしろ兄もそういう時期だったので、感情の波が激しかった。
暴れたり騒いだりすることも多くなった。


中高の6年間は朝ごはんを食べるときに会うだけで会話もしなかった。


僕は関わりたくなかった。
僕の人生で兄は必要ではないとその当時思っていたから。


大学は県内だったが一人暮らしをした。
兄と関わる生活をしたくなくて。



それがあったからなのか、思春期を終えたからかわからないが

それからは普通に話すようにはなった。



母親の気持ちを知るために

障害のある子供のためのデイサービスでアルバイトをした。
いわゆる学童みたいなものだ。



その中で福祉系の学校に通っている人の話。
その子供たちの親御さんの話。
兄弟の話。
養護学校など福祉の現場で働く人の話。

色々な話を聞いて知らなかった現状が知れたし、母親の気持ちもよくわかった。

今まで兄のおかげで、ふつうの人よりも障害のある人と会う機会は相当多かったのも幸いして。


僕みたいに兄弟に障害者がいる人の多くは、進学先や就職先を福祉関係にする。




今までの経験を通してだが、彼らはすごいなと素直に思う。

僕は仕事で兄と同じ障害者と向き合うことはできない。


僕は生まれてから死ぬまで兄の障害と向き合って生きていかなければならないから。



親がいつまでも面倒みれるわけではない。


いくら福祉の制度や環境が整っても、障害者を嫌いな人間はいる。


他人に任せればいいと親はいうが、世間様は自分で見れるならなんで見ないだというでしょう。
家族なんだからそれが「ふつう」でしょと言わんばかりに。






僕は好き勝手生きてきた。
やりたいこともなんだかんだやれてる。



でも「ふつう」の兄が欲しいといくら願っても叶わない。
お金があっても地位があっても権力があっても何でも治せる天才であっても。





障害者を持つ家族の特殊能力で、


「障害者(自閉症)の行動や気持ちが読み取れる」

がある。



それのおかげで僕は苦しいのだ。



自分の中の正義感でそのような人がいたら助けたほうがいいかなといつも思ってしまう。










良くも悪くも、日本では24時間テレビや日本理化学工業イエローハットなどのおかげで

障害者への配慮や認知は広がっている。


彼らも働くことで必要とされている、褒められる、役に立つという幸せは感じる。
しゃべれない人も感情はあるし、
読み書きもできない知的発達にだいぶ遅れがあっても人間だという認識はある。




彼らを理解しようとする人の強さには本当に感銘を受ける。


ふつうのことがふつうにできない。


だから彼ら障害者には健常者が必要だ。


でも、健常者には必ずしも障害者は必要ではないのだ。



きれいごとを言ってもそれが現実だと思う。




今までの人生で僕は彼らと向き合うことをしなかった。




でも、もしかしたら神様は僕に

障害者の役に立つべきだと使命を与えたのかもしれない。




それは福祉の仕事ではない何かで。



僕には手もある足もある目も耳も言葉をしゃべられる考えられる感情表現もちゃんとできる。





それが特別なんだとわかるのも障害者の兄がいる僕の特権なのかもしれない。





だからこそ、障害者だけでなくその親や兄弟のサポートもより必要だと思う。

それを含めての障害者福祉だと。

何かを犠牲にしたり我慢したりしている兄弟はいる。

その彼らの役に立つことももしかしたら僕の使命なのかもしれない。