脇役とメガネ

東京で溺れています

担当ってやつ

会社の人間として仕事をしていると自分の担当の仕事かそうではない仕事に割り振られる。

 

自分の担当の仕事なのに決定権も無く、言われるがままにやることもあるし、担当から急に外されることもある。

自分のと付けたが正しくは「会社の」仕事なのである。

 

だから会社の人間として会社の仕事を行うわけだからそこに一個人の主張も意見も必要はあまりないのかもしれない。

 

担当の仕事はそれはそれでいいとして、

自分の担当ではない仕事もなかなか厄介である。

 

その仕事の担当ではないから、他社やその関係者から連絡を頂いても正直分からないというのが本音だ。

むしろ、なぜ担当者に言わない?

自分に言っても分からないし、何もできないですよと。

 

それを担当者に伝えるとwhy?という気持ちと怒りを感じる。

 

まぁ、それって信用されてないのではないですか?ということ。

もしくは対応ややりとりが不十分だということ。

 

それを連絡をただもらって報告しただけの自分に言われても知ったこっちゃないよという話で。

 

 

自分の担当の仕事の相手ぐらい自分でちゃんと繋ぎ止めておけよ。

 

担当者でもない自分に当たられても知らないよ。

 

 

なぜかそういうのに巻き込まれやすい性格なので、いつも辛いですわ笑

上司に口ごたえをしてはいけない

今日、上司に意見を言った。

 

汚い言葉でもなく、感情的な振る舞いでもなく、ただいつもの口調で言った。

 

上司から帰ってきた言葉が

 

「偉そうなこと言うな」

 

でした。

 

ここでの答えは

 

「はい、分かりました。大丈夫です。」

 

が正解だ。

 

うちの上司は

 

意見があるなら言えと言うのに

 

言ったら言ったで

 

全て否定される。

 

ほとんどが

 

「それは違う」

 

から入り、持論の展開だ。

 

 

僕は思ったことを言う性格なので、

 

 

今日も一日

 

 

「はい、分かりました。大丈夫です。」

 

を復唱し、身体に憶えさせている。

 

 

多分、この上司は前職でもイエスマンしかいなかったのだろう。

普通か非普通か

 

20代後半になると結婚する人が増えてくる。

 

いくら晩婚化、少子化と言われていても通例通り皆このぐらいの時期に結婚するみたいだ。

 

 

つい先日も友人の結婚式に行ってきたところだ。

 

 

他人の幸せを喜べる人間ならどれだけ良かっただろうと思っている。

 

僕は1mmも喜べないみたいだ。

 

周りの人間が喜ぶ姿を妬んでしまう。

 

皆んな羨ましい。

 

 

彼女がいる

婚約する

家を買う

車を買う

今度旅行に行く ...etc

 

 

周りの人全てが羨ましく思う

 

 

そしてなぜ自分は幸せではないのだろうと疑問に思う。

 

不満のない仕事。

辛くも厳しくもない。

 

ホワイトだ。

 

でも面白くはない。

 

 

日々生きていてただ息を吸ってご飯を食べて指先でいじっていつもの道をただ往復を重ねていつもの時間に眠る。

 

 

僕の人生は無味無臭である。

 

 

地獄でもなく天国でもなく何も無い。

 

 

普通であることに羨ましさがあるが、

自分は人とは違うものが欲しいという矛盾が存在している。

 

両方手に入れば苦労はないが多分手に入らないだろう。

 

虹色の気持ちを味わいたいが、自分の現状ではなおさら厳しい。

 

 

僕はどんなことがあってももうこの道を歩くしか選択肢はないのなら、そこが地獄でも何も存在しない空間でも歩き続けるしかない。

仕事人間

仕事が充実していないと気が狂いそうだ。

 

俺の中心は仕事。

 

仕事が面白くなければ生きている意味が分からない。

 

俺にもっと仕事をくれ。

 

プライベートが憂鬱なのも恋愛がうまくいかないのも友達とすれ違うのも全て仕事がつまらないからだ。

 

 

いや、仕事のせいではないか。

 

仕事人間だが、つまらないのは仕事ではなく俺自身だ。

 

 

ワクワクするような、心が震えるような仕事がしたい。

 

心から欲しているのはそれかもしれない。

理不尽に耐える友人へ

状況を変えられるなら変えられるように努めればいいのではと思ってしまう。

 


もちろんそれをする労力はかなり消費する。

骨が折れるような道のりだと思う。

 

 

 

被害者になったものは被害者意識に囚われて、相手が悪いとしか言わなくなる。

もちろん、そう思うことをされたのだからしょうがない。

 


こちらが言って相手がすんなり変わってくれれば良い。

でもそんなことはまずない。

言っても同じことをしてくる。やめてはくれない。

 


その被害を被っている人からすれば、その思考に至りづらいとは思う。

 


「自分が原因でこのような状況になっている」

 


と考えることも大事なのかもしれない。

 


それは相手への加害者への服従ではない。

 


むしろ、加害者に攻撃させない方法でもある。

 


その原因が変えられるものであれば、相手が攻撃する大義が無くなる。

 


でも、被害者側ももちろん人間なので、そう簡単には変わらない。

 


しかし、相手に変わってもらうのをいつまでも待っていたら自分の人生の貴重な時間が勿体無い。

 


それでも相手が悪いと思う気持ちは分かる。

 


残念ながら相手はあなたより出来の悪いポンコツだから言っても聞かない。

 

 

 

それでも相手がやめることが1番の策なのであればあなたはずっと耐えるしかない。

待っていても助けてはくれない。

助けてくれるのは取り返しのつかない状況になったときだけだ。

 

 

 

相手を変えるより自分を変えてしまう方が楽です。

何者でもない感覚


自分が何者でもないと感じると劣等感や嫉妬やそんな類の感覚が生まれる。

生まれたからには有名になりたいとか一芸に秀でたいとか日本一になりたいとか、人とは違うものが欲しい。才能と呼ぶものが。

それを持っている人間は名前のある何者かになれる気がした。

 

 

 

 


昔、仕事を辞めて感じたことは

組織の一員で無くなる疎外感でも無く、社会から拒絶される恐怖感でも無く、社会人としてのレールから外れる羞恥心でもなかった。

 


ずっとワクワクしていた。

 


会社員のときはずっとこのままなのかという絶望感と自分の思うことが何一つできないこと。それが辛かった。

 


上司のファッションもダサくて泣けたのはここだけの話。

 


これから会社員では無くなる高揚感。

 


これから何でもできるという期待。

 


自分の意志と責任で動ける喜び。

 

 

 

所属も看板もないのに何かできる気がした。

何もないからこそどこへでもいける気がした。

 


フリーランス時代は自分の好きなことができた気はする。

自分の裁量でできた。

 


誇れる経歴も受賞歴も学歴も持ち合わせてはいなかったが、それでも何者でもない自分でいられることは楽しかった。

自分の存在だけで生きていくことが楽しかった。

 


それを経験してから何者にならないといけないと思っていた自分は少しだけ何者でなくても大丈夫な気もしていた。

 

 

 

それはいつか何者かになれる期待を持てたから。

 

 

 

歩んでいくとやはり何者にもなれない気はした。

このまま進んでも何もない。そんな絶望感。

 


だから、フリーランスや会社員に拘らなくなった。

 


フリーランスの責任感や決定権のあるあの環境はいまでも好きだ。新しいこと、面白いことを取り入れられるからワクワクする。

 


でも今の僕は実力も知名度も何もかも並だ。

悲しいがこのままでは僕は何者でもないまま終わりそうだった。

 

 

 

今は会社員として、

会社の看板や事業やモノがある。

 


それを使わせてもらって自分はここにいると言える。

 


◯◯と言えば自分となるまで頑張ろう。

何者でもない自分が何かに特化できるチャンスでもある。

強みという言葉が正しいのか、差別化を狙えると言った方がいいのかわからない。

 


でもそこまでくれば何者かになれるかもしれない。

 


でも自分はいつまで経っても自分だということは忘れないようにしよう。